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新品 :28124284713
中古 :28124284713-1 |
メーカー | 56a28 | 発売日 | 2025-05-10 00:51 | 定価 | 25000円 | ||
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カテゴリ |
不昧公の正室・方子と娘・玉映の落款
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自筆「源氏物語」の「東屋(あづまや)」の巻は、禁裏(京都御所)において書かれたものです。
「東屋の巻」の主人公は、源氏の君と女三の宮の皇子・薫の君と今上帝天皇と明石中宮の皇子・匂宮、そして大君(おおいきみ)に似た美しさを持つ浮舟とのきらびやかな恋物語が描かれている
自筆「源氏物語」の筆者である「大炊御門宗氏(おおいのみかどむねうじ)」は、室町時代の第103代天皇である後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の曽祖父です。
したがって、出品した自筆「源氏物語」は、天皇の曽祖父の貴重な自筆です。大炊御門宗氏の長男・信宗の娘が大炊御門信子(のぶこ)であり、信子は後花園天皇の寵愛を受け准后として御所に居住し、皇子を生み後に第103代後土御門天皇として即位し、信子は生母・皇太后となる。現在の今上天皇と系譜がつながっている。
関白・近衛基熙(このえ もとひろ)は、後水尾院(第108代後水尾天皇)の皇女・常子内親王と結婚。二人の皇女・熙子(ひろこ)は、甲府藩主・徳川綱豊と結婚。綱豊は、のち第六代将軍・徳川家宣となり、熙子(ひろこ)は将軍家宣の正室となった。近衛基熙は、千利休の孫・千宗旦との茶会の交流(下記に掲示)で知られると同時に、第111代・後西院天皇や後水尾天皇を主賓に迎え茶会を開催。茶会の際、基熙が所蔵する藤原定家・自筆の「定家色紙」を持参した記録がある。基熙は、他にも朝廷・幕府の間で茶会を何度も開催した記録が残っている。(資料の記録は下記に掲示)
出品した「源氏物語」は、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」の自筆です。
自筆「源氏物語」の書の特徴から高松宮系統と称されるものです。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、少なくとも応永五年から8年間にわたり書かれていることがわかる。このため後醍醐天皇の宸翰(しんかん・天皇自筆)にかなり近い年代に書かれていることがわかる。また、各巻ごとの書かれた年については不明。従って、応永五年とは、書き始めの年である。また、落款から、後年、近衛基熙(1648~1722)の所蔵となり、時代が下って、松平不昧公の手にわたり、正室・方子の所蔵となったものである。近衛家で永く保存されておりましたので、保存状態は極めて良好です。
大炊御門家は、平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実・治暦4年(1068)~天承元年(1131)を祖として創立された。大炊御門北に邸宅があったため「大炊御門(おおいみかど)」を称する。初代、経実の子経宗は平治の乱で平清盛方の勝利に貢献。また、二条天皇の外戚として勢威をふるい、左大臣に昇った。出品した「源氏物語」の筆者・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)は、大炊御門家13代の当主で南北朝時代から室町時代前期の公卿。応永5年(1398年)に従三位となり公卿に列する。備前権守、参議、権中納言、権大納言などを歴任し、応永27年(1420年)に内大臣に昇任した。
旧・所蔵者の近衛基煕は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を著(あらわ)しております。炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに出雲松平家に伝わり、松平治郷の正室・方子が鑑賞していたものです。近衛基熙が所蔵する自筆・「源氏物語」の中で、最も美しく繊細な筆致で記された平安時代の文字に最も近いとされております。数ある自筆「源氏物語」の中で、第一級品と称される貴重な自筆です。
出品した「源氏物語」は東屋(あづまや)の内容の要旨
『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。東屋の巻は、源氏の君と女三の御子、薫の君と今上天皇の皇子・匂宮、そして、朱雀院(前朱雀天皇)の弟・八の宮を父とする浮舟の恋物語を描いております。大君と中の君の姉妹は、朱雀院(前朱雀天皇)の弟・八の宮を父とする。八の宮のなきあと宇治にこもる大君と中の君の姉妹のうち、大君との結婚を望む薫の君(母は、前朱雀天皇の皇女・女三の宮)は老女房の弁たちの手引きで大君の寝所に入るが大君は気配に気づき隠れてしまう。大君と結ばれぬまま終わった薫の君は深い悲嘆に沈む。ある日、浮舟の母・中将の君はつてを頼って中の君の住む二条院に身を寄せる。大君と中の君の姉妹は、朱雀院(前朱雀天皇)の弟・八の宮を父とし正室の間に生まれた姉妹であるが、浮舟は正室とは違う異母・母の中将の君の元に生まれたため、父は認知をしなかった。浮舟が中の君の異母妹であったこと知る美しい女性であった。中の君を妻とする匂宮(今上天皇と明石皇后の皇子)は、偶然邸内で浮舟を見つけた匂宮は浮舟に恋をつのらせる。◆錵◆ 古伊万里 大明萬暦年製 草花文染錦皿 2枚纏めて 唐物骨董 [N23]V/23.11廻/IT/(100)。悲劇の精磁会社 染錦八角中皿 明治伊万里 有田焼。★ 81795 大鉢 山水紋鉢 ミツ揃 直径25x高さ11cm / 直径21x高さ10cm / 直径18.5x高さ8.8cm 難有 ★*。古伊万里 団扇の図 そば猪口 蕎麦猪口 NO.E4-4.8.10-2。有田焼 濁し手 宮内庁御用達窯元 14代 辻常陸 染錦 桜水文 角切 八角皿 江戸時代初期からの禁裏御用窯元 未使用 共箱桐箱。古伊万里 伊万里 色絵 なます皿 菓子皿 蔵出し 5客。★華心★ CMl-E373mS 平戸嘉祥 染錦 墨弾き 桜に蜘蛛の巣の図 吉祥紋 6寸皿。李朝 古伊万里 古九谷 色絵 魚文 煎茶碗 茶道具 蔵出し 5客。古伊万里 染付 金彩 色絵 染錦 盛絵 描き分け 花蝶 松に鳳凰図 輪花 21cm 中皿 江戸後期 bqpci-Na3359k。∞ 南 美 ∞【 其泉作 染錦 六方割濃菊 雑煮碗 5客 共箱付き】 最大径約12.7cm 有田 蓋碗 器。伊万里焼 色絵 髪油壺 赤絵。古伊万里 伊万里 豆皿 菓子鉢 華の図 檜垣 茶道具 蔵出し 5客。M473 伝統的有田焼 館林源右衛門作 一輪挿し 染錦鉄線花花瓶 キンポウゲ落葉蔓草色絵丸壺 古伊万里伝統日本銘窯 /60。e619 技工名品 禁裏御用窯元 宮内庁御用達 十四代 辻常陸 作 青花 牡丹文 輪花 鉢 作品集 図録付 箱無 栞付 美品 日本美術 本物保証。【特大!圧巻の直径56cm!】 幕末〜明治期 古伊万里 伊万里焼 有田焼 染錦 一尺八寸皿 在銘品。【うつわ】 大聖寺伊万里 金襴手 蛸唐草 唐子文蓋茶碗 10客 明治時代 D514 バラ売り可能です 日本料理 懐石 料亭 骨董 古玩。z375 伊万里 色絵染錦 花蝶鯉文 盃洗 杯洗 酒器 食器。★ 91352 伊万里 染錦 角皿 10客 焼物皿 刺身皿 長角皿 伊万里焼 レトロ ★*。古伊万里 染錦菱形皿5枚 雀に稲の図 幅:17.5cm 幕末~明治/23k052。Y01010 有田焼 大型 沈香壷 飾壷 染錦 金彩 色絵 花鳥松鶴図 伝統工芸 光右衛門 特大 壷。古伊万里 伊万里 大聖寺伊万里 なます皿 色絵 華の図 蔵出し 5客。z400 伊万里 色絵染錦 鶴亀風景文 盃洗 杯洗 酒器 食器。。
《「源氏物語」東屋(あづまや)の巻》
《「背燈隔帳不得語」(燈に背き帳【とばり】を隔てて語ることを得ず)
という漢詩文の落款が押捺されている。この漢詩は「白楽天」中の有名な一節です。》
《浮舟の母、娘の良縁を願う》
《浮舟の母、浮舟を匂宮邸に連れていく》
《こよひ(今宵)》・・・はとのゐ(宿直)にそ。
今は、一夜を隔つるもおほつかなきこそくるしけれ」
とて、しはし慰め遊はして、出てたまひぬるさまの、
返す返す見るとも見るとも、飽くましく、匂ひやかに
をかしけれは、出てたまひぬる名残、さうさうしくそ眺めらるゝ。
《浮舟の物語 浮舟の母、中の君に娘の浮舟を託す》
《第一段 浮舟の母、中の君と談話す》
女君の御前に出て来て、いみしくめてたてまつれは、田舎ひたる、
と思して笑ひたまふ。「こ上のうせたまひしほとは、言ふかひなく
幼き御ほとにて、いかにならせたまはむと、見たてまつる人も、
こ宮も思し嘆きしを、こよなき御宿世のほとなりけれは、
さる山ふところのなかにも、
生ひ出てさせたまひしにこそあり・・・・《けれ。》
(文責・出品者)
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。
《「源氏物語」東屋(あづまや)の巻》
《桐壺天皇の皇子・八の宮と中将の君との御子・浮舟と薫の君、匂宮の恋物語・自筆「源氏物語」東屋》
《桐壺天皇の皇子・八の宮と中将の君の子・浮舟(大君と中の君とは異母姉妹)の良縁を期待する母君》
《浮舟の母君(中将の君)、中の君に浮舟の庇護を依頼する》
《浮舟の母君、浮舟を連れて匂宮(今上天皇の皇子)の妻、中の君の邸に赴く》
《宮(今上天皇の皇子・匂宮)は、若君がはい出してきて、御簾(みす)の端から
おのぞきになったのをふとごらんになり、引き返しそこへ寄っていらっしゃった。
(今上天皇の皇子・匂宮)「后の宮(今上天皇の皇后・明石中宮)のご気分が
およろしいようなら、すぐに退(さが)ってきましょう。
やはりおわるいようだったら、今夜は》・・・・宿直(とのい)ですよ。
このごろは若君(今上天皇の皇子・匂宮の妻・中の君との御子)と一晩でも
会わないでいると気がかりなのが、ほんとにつらい」
とおっしゃって、しばらく若君をすかしあやしてお出ましになる
宮(今上天皇の皇子・匂宮)のお姿が、いつまで見ていても
見飽きることはあるまいと思われるほど、つやつやとあざやかにお美しいので、
お出かけになったあとが寂しく、母君(浮舟の母君・中将の君)は、
ついぼんやりと虚(うつ)けたような気持になっている。
《十八・中将の君(浮舟の母君)、中の君に浮舟の将来を委ねる》
女君(今上天皇の皇子・匂宮の妻・中の君)の御前に母君(浮舟の母君・中将の君)が
出てきて、宮(今上天皇の皇子・匂宮)のご様子を思いきりおほめ申しあげるものだから、
女君(今上天皇の皇子・匂宮の妻・中の君)は
(今上天皇の皇子・匂宮の妻・中の君)「田舎(いなか)びたことよ」
と思い、お笑いになる。
(浮舟の母君・中将の君)「あなた(今上天皇の皇子・匂宮の妻・中の君)様の
母上(桐壺天皇の皇子・八の宮の正室)様がおなくなりあそばしたころは、
あなた様はまだ何もお分りにならぬくらい
お小さくていらっしゃって、どうおなりになることかと、おそばにお仕えする者も
なき八の宮もお嘆きになったものですが、このうえないご運がおありでしたので、
ああした山深い所でもちゃんとご成人あそばした・・・・《のでした。》
備考・大将殿は権大納言兼右大将で今上天皇と麗景殿女御の皇女・女二の宮を正室に迎えている薫の君。浮舟は桐壺天皇の皇子・八の宮と中将の君の御子。八の宮の兄は源氏の君と朱雀天皇。◆錵◆ 古美術品 有田焼 其泉窯 湯呑 盃 21点纏めて 染錦色絵 茶道具 酒器 唐物骨董 [Y502]PP/22.7廻/HK/(140)。『古伊万里染錦 断崖に松の図 変形皿5枚まとめて① 在銘「吉」』明治~江戸後期 縁紅。オールド香蘭社 明治期海外輸出陶磁器。 染錦吹き墨、渡り鳥と月図。このため大君と似た浮舟に薫の君が惹かれている。
現代語訳の出典・「源氏物語」小学館刊・阿部秋生・東大名誉教授(1999年没)
備考・出品した自筆は、大炊御門宗氏・自筆で近衛基熙の旧・所蔵になるものです。
《The Eastern Cottage(東屋)》
Otherwise I suppose I'll have to stay until morning.
I do hate to be away for even a single night."
The governor's wife gazed on and on until finally he made his departure,
and when he was gone she was somehow lonely.
She could not find strong enough words of praise.
Nakanokimi smiled, thinking the lack of restraint a bit countrified.
"You were a mere infant when your mother died.
All of us, and your father too, wondered what would become of you.
You were born under lucky stars.
That's why you could grow up way off in the mountains
and still be the fine young lady you are.
英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』
Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)
《東屋》
我立刻就回来。如果不愈,我今夜就得在中宿。
近来和分一夜就不自在,真受!”
他慰小公子一番,便出去。
浮舟的母看他的容姿,得常,
反百遍也看不。他出去之后,里岑寂了。
就来到二女公子房中,口称匂王不置。
二女公子得此人有些下人气,笑着听。
二女公子言道:“当年夫人逝世之,幼小得很。
王和身的人都愁息,担心的前途如何是好。
全靠宿世命好,在那山的抱之中也能利地大成人。
中国訳文の出典:『源氏物語(Yunsh wy)』
豊子愷(ほうしがい)中国最初の「源氏物語」翻訳者(文化大革命で没)
注記・中国語の文字の一部がシステムの関係で反映されない場合があります。この場合、落札後に正確な中国語の文字を記載した中国語訳文を交付いたします。
左の写真が「源氏物語」東屋の巻の末尾(原本番号66-B)の押印。
写真一番左下の角印が仙台藩の家紋印(竹に雀)
家紋印の上の2つの印は仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室(冬姫)。冬姫は内大臣・通誠の養女。
冬姫は通称。正式な名は伊達貞子。左端の写真は「東屋の巻」末尾の拡大写真。
左上の篆書体は、「背燈隔帳不得語」(燈に背き帳【とばり】を隔てて語ることを得ず)の押印。
篆書体の下の二つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)と娘・玉映の落款
写真右上の2つの印は仙台藩医・木村寿禎の落款
右端の写真上は仙台藩主(伊達家)正室一覧表の表紙。表紙の下は一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)
(奥書は、令和2年11月29日に蔵の中の桐箱から発見されたものです。)
(出品した自筆の「断層画像写真」(東屋の巻)MRI 50―22B
自筆二つの印のうち下は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)」、上は娘の幾千姫(玉映)の落款
「源氏物語」「東屋の巻」主人公・東屋の資料
下記写真は、国宝「源氏物語絵巻」の中に描かれる中の君と浮舟。
「源氏物語絵巻 」東屋一(国宝)髪を梳かせている中の君(左下)と、
女房に詞書を読んでもらいながら絵物語に見入る浮舟(中央上)
「近衛基熙の肖像」「後西院天皇主賓の茶会の記録」
1番上の写真は、第103代後土御門天皇と曽祖父・大炊御門宗氏の系図(公家事典303頁)
2番目の写真は「額縁裏面」に表記されるラベル。2番目の写真は近衛基熙の肖像(陽明文庫・所蔵)
3番目の写真は、第107代後陽成天皇の曾孫・近衛基熙の天皇家・近衛家略系図
4番目の写真は、天皇家・近衛家略系図の出典(淡交テキスト「茶会記」に親しむ・7)平成29年7月淡交社・刊行
源氏物語「東屋」原本に記されております。紫式部が「東屋」を書くに際し、「白氏文集」の漢詩を熟読したうえで「源氏物語」の「東屋の巻」を書いていることがわかります。この原詩の言葉の引用は、「東屋の巻」に用いられていることで広く知られている。紫式部がこの原詩に親しんでいたと推定されている。
「香煙引到楚香処」(香煙引き到る、楚香の処)の漢詩文の落款が押捺されている。この漢詩は「白氏文集」に由来するものです。
つまり、原文の内容に関する漢詩の落款を押捺しているのは、茶会における床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)の際に、茶会を主催する亭主が、客に「最高のごちそう」を振る舞うために披露したものです。茶会の際に落款に記された由来を知った客が広くそのことを社会に広めたために結果的に、多くの茶会に開催される「最高のごちそう」として原文に関係する漢詩の落款を付したものです。「落款」の漢詩の由来を待合において説明する際に、長い時間を要し、茶会における貴重な時間であったと推定されております。
出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。
古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。撮影後、展示のために再表装をしております。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。
国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。
一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。
2・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)の自筆の特定について
自筆の筆者は、書体、書風から京都の公卿によって書かれたものであるはわかっていたが、昭和38年以来、筆者名は特定されていなかった。その後、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析と並行し、奥書の「宗」の字の下の文字が判読できずにいた。それが、技術の進歩により「宗」の下の文字が「氏」と判読された結果、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」であることが判明した。
「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、大炊御門宗氏が23歳から31歳までの間に書かれたものと推定されている。宗氏は、正二位・内大臣まで昇進したのち、応永28年(1421)47歳で没している。
3・自筆「源氏物語」の旧・所蔵者の特定の経緯について
近衛基熙の旧・所蔵の特定は、「花押」の写真照合技術によるものです。アメリカのコンピューターを用い、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析を、花押の照合に応用し、指紋の照合方法と同じ手法により99.9パーセントの確率で特定に至ったものです。
4・近衛基熙(このえもとひろ)について
近衛基熙は、慶安元年(1648年)3月6日、近衛尚嗣(関白・左大臣)の長男として誕生。母は後水尾天皇皇女女二宮。実母は近衛家女房(瑤林院)。幼名は多治丸。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護下で育てられた。承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に叙せられ、左近衛権少将となる。以後、摂関家の当主として累進し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。明暦2年(1656年)に権中納言、万治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子内親王を正室に賜った。寛文5年(1665年)6月、18歳で内大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延宝5年(1677年)に左大臣へ進み、長い時を経て元禄3年(1690年)1月に関白に昇進した。近衛基熙は、寛文5年(1665年)から晩年まで『基熈公記』で知られる日記を書いている
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