Yahoo!オークション - 大型図録本楽茶碗実物大写真解説58点楽焼。大型図録本□楽茶碗実物大写真解説58点楽焼長次郎黒赤道。楽茶碗 赤楽茶碗と黒楽茶碗 - YouTube。米・雑穀・粉類 Okankun。 閉じる
希少本実物大茶碗写真集 長次郎銘大黒頁
閉じる
長次郎銘東陽坊頁商品説明に画像多数掲載。画像の後に、商品説明がございます。
【即決】ご入札いただければすぐにお取引が成立します。
実際に茶席で拝見するような感覚で楽しめる上、
国宝・重要文化財を始めとする、和物茶碗のうち長次郎、道入(ノンコウ)、光悦、唐津、萩、高取、薩摩、
信楽、朝日、仁清、乾山の茶碗。
箱書き、見込みなどの写真他も参考図版とした、研究家の第一人者による各茶碗の見どころの詳細な解説、主要な茶碗についての断面図も含めた概説。
平凡社の豪華愛蔵版大型図録本「茶碗」全5巻のうちの一冊。収録した茶碗は五十八点、和物茶碗のうち長次郎、道入、光悦、唐津、萩、高取、薩摩、信楽、朝日、仁清、乾山にあたる。 一、原色図版は、原寸大を原則としたが、高台は、視覚的安定をうるためにいくぶん小さめにした。
一、付属品および書き付けのうち、とくに重要と認められるものは、参考図版として解説欄外に掲載した。
一、所蔵者名は、博物館、美術館のみを記載し、個人の所蔵者名はこれを省いた。
なかでも、大黒がいかに著名であったかは、万治三年に上梓された『玩貨名物記』に、すでに「一 大くろ 黒 茶碗 利休所持 所持不知」と記載されていることによってもうなずかれる。さらに同記には「所持不知」とあるが、万治初年ごろには、後藤少斎か江岑のものであったと推測される。まさに利休晩年の「心味の無味」の茶境を、象徴するものといえるのではなかろうか。
高台は口径に比して、やや小ぶりで、あまり高くなく、どちらかといえば、つつましく削り出されている。手づくねとしては、製作技術の上からは必要としない兜巾だけに、これはあくまで高台の様を考慮しての作為であったと考えられる。
総体に黒楽釉がかかっているが、ことに外側の釉がかりは、長次郎茶碗として比較的なめらかで、独特の飴色をおびた黒釉がよく溶けている。内側は長年の茶渋なども付着し、また使用中にもかせたのであろうが、見た目には、艶は全く失われ、マット調のかっ色の釉膚をしている。
高台畳つきの一部の釉が欠失し、そこにいわゆる聚楽土が、あらわに現われている。外側、高台脇から側面にかけて山きずがあり、口辺には数力所、漆繕いがみられる。「大クロ」は千利休の銘で、その後、利休から少庵、宗旦と伝わり、一時京都の数寄者後藤少斎の有となったが、江岑の代にまた不審庵の什物となり、しばらく表千家に伝わったのち、三井浄貞を経て、大阪の鴻池家に入り、以来、鴻池善右衛門家の什物の中でも、特に珍重のものとして伝えられたものである。(林屋晴三)
長次郎 赤 銘 無一物 中興名物 重要文化財
寸法(略)
内箱蓋表に古宗室、すなわち千仙叟の筆で「無一物」と墨書き付けしてあるが、それが仙叟の銘であったか、あるいは以前からの銘を、仙叟が箱に書いたものかは判然としないが、一応、仙叟銘とするべきであろう。
作ゆきは、典型的な利休好みの茶碗で、おそらく制作年代も天正十五年前後、初期の宗易形長次郎茶碗ではなかったかと推測される。高台は口径に比してやや小さく、これまた温和に削り出されているが、高台内の兜巾は、大黒と同じく、くっきりと、うず状に小高く作られている。「大黒」もかなり厚いが、この茶碗の場合は、いささか例外で、あるいは一度削り上げた後、さらに内底に、土を補充したのかと思わせるほどである。総体に、透明性の釉薬をかけて焼成しているが、釉がけが薄いのと、焼成火度が低かったためか、釉膚はほとんどかせて、土膚に薄く付着しているかのような状態になっている。ただし内側には比較的よく残り、また高台ぎわから高台の内外に釉だまりが生じ、その釉も白くかせている。所に残っている。
江戸時代前期の伝来は不詳だが、のちに京都の数寄者清水藤太郎の所持となり、さらに享和初年に、道具商竹屋忠兵衛の取り次ぎで、松平不昧公の蔵となったらしく、『雲州名物記』の中興名物の部に、
長二郎 赤 無一物 京 清水藤太郎 享和 竹忠 五百両
としるされている・しかし『大崎様御道具代御手控』には「無一物 切八(切屋八左衛門)三百六十四両 中興(中興名物)」とあり、あるいは御手控の記述のほうが、正しいのではないかと推察される。
道入 黒 銘 升
寸法 略
いつごろからか、長次郎七種にちなんで、ノンコウ七種と称して、若山、稲妻、鳳林、升、獅子、千鳥、鵺の七碗が選ばれ、ノンコウの代表作とされているが、なかでも「升」は、筆頭の名碗として、やかましいものである。
本阿弥光悦から、「吉兵衛は楽の妙手なり」とたたえられただけあって、ノンコウの作ぶりは、いずれも軽妙であり、旺盛な作為に満ちているが、この「升」は、まさにノンコウの面目躍如とした茶碗である。
高台は尋常に削り出され、高台ぎわから腰にかけては、なだらかなまるみをもち、胴は少しふっくらとして、一部にややくびれたところがある。いわば腰のあたりから、撫で角の四方になっていることを除けば、その形状は、けっして作為の強いものではなく、いたって素直に、尋常に作られた茶碗といえる。茶だまりをとらず、広く湾曲させる作ぶりは、ノンコウ独特のもので、類形を求めれば、光悦の見込みが最も近く、あるいは光悦の影響を受けたものかもしれない。
高台と、高台まわりを土見せにするのは、常慶在印の茶碗の幾つかに見られるが、定着するのはやはりノンコウからで、これは高台内に押された「楽」字の印を、くっきりとさせるために、始められたものと考えられる。高台の五徳目五。
胴の一方に、山形に白釉を施したほかは、黒楽釉がかけられているが、腰まわりは薄く、口辺から胴にかけては厚く、あたかも垂れ幕のように、変化をもたせてかかっているが、これがノンコウ独特の釉技、幕釉である。このように、釉がけに装飾的な作為をこらしたノンコウであったが、こうした作為は、利休好みの長次郎茶碗には、全く見られなかったもので、やはり江戸初期という、時代の気風がもたらしたものといえよう。
唐津 銘 三宝 (一名 是閑唐津) 重要文化財
寸法略
唐津随一の名碗として知られた茶碗である。素地は小砂まじりの、ざらっとした荒い土で、堅く焼き締まって、岩のような感じである。半透明性の、しっとりとした光沢の、鈍い釉薬が内外にかかり、外側腰以下は、露胎である。作りが厚く、どっしりとした重々しい感じの、唐津としては珍しい姿の茶碗である。
内面見込みは、かいらぎ状に釉薬のちぢれがあり、三角状に土を見せ、そのまわりの釉薬は、厚く青みをおびている。焼成はやや甘く、中性炎のため、枇杷色になったところもあるが、また還元ぎみで、青みをおびたところもある。形は柿の蔕ふうだが、井戸を思わせるような、どっしりとした重、しい茶碗で、唐津では群を抜く名碗というべきであろう。是閑唐津とは、其の色合が、少し赤味がかってたものであるが、固より、我が唐津焼では無い」という意見を述べているが、今日では是閑唐津を、唐津と見ない人はない。是閑唐津も、桃山末・江戸初期に作られたものだろうが、唐津のどの窯で作られたということは、はっきりとしない。
付属物は、
内箱 黒塗り 蓋表書き付け 金粉字形「是閑唐津 茶碗 三宝」
中尾唐津とともに、鴻池家に伝世したもので、唐津の名碗として知られている。この手は、おおかたの掘り出し唐津と違って、一品製作に成る、純然たる茶器生まれのもので、器格からして、通途の唐津とは格差がある。形には大小あるが、締まった小ぶりのほうが、古来、賞美されている。素地も赤みで、釉膚も総体枇杷色に上がり、釉掛かりに自然の濃淡現われ、あるいは釉なだれや、掛けはずしが諸所に見えて、すこぶる景趣に富んでいる。裾の土見には、引き目の細筋よく現われ、脇にぬたの残ったのも、かえって茶趣を加えている。見込みは、ふところゆったりとして、景も多く、釉膚は、かいらぎ状を呈している。
さすがに『雲州蔵帳』所載の松平不昧愛玩の品だけに、万般の見どころ具足の、奥高麗中の奥高麗ともいうべき、茶趣満点の名碗で、古唐津の秀逸として推すにはばからない。真蔵院伝来によってこの銘があり、のち松平不昧の有となって、長く愛玩秘蔵され、『雲州蔵帳』には上之部に、
真蔵院 古唐津箱奥高らい 大川清右衛門(細川三斎公ノ寺真蔵院) 安永 伏見や 十枚
と登録されている。
【概説より 一部紹介】
長次郎・道人・光悦・唐津・萩・高取・薩摩・信楽・朝日・仁清・乾山
長次郎
桃山時代は、わが陶芸史の上でも、大きな変革を示した時期であった。楽焼きもまた、当代に始まった新興窯芸であるが、のちのわが窯芸全般に与えた影響が大きな点で、特筆されてよい。が、近年公表された楽家伝来の古文書や、新しく発見された陶芸品などから研究が進められた結果、これまでの通説には、いろいろな誤りがあることが
知らされた。
覚
一 あめや女方 ひくに也
一 長次郎 但戊辰年辿二百年計成
一 長次郎かためしうと
(以下略)